2021.08.02
ひとみんのイントラ部屋 ~ 海外遠征 ~
1994年、まだ携帯電話もポケベルもない頃、入学式にも参加できなかった新米高1の私は、先生や友達の名前を覚える間も無く中国 上海で行われた第一回東アジア大会に参加した。今回の東京五輪ほど厳しくはなかったが、選手は空港から直接上海随一のホテルに全員缶詰にされた。当時はまだ中国は共産主義が色濃く残っており、いまの1/100も発展しておらず、トイレはドアなしで、水路のようなところだったし、広大な道路には自転車の集団、道にはみ出した物干し竿に洗濯物が万国国旗のようにはためいていた時代だ。鉄道も貨物線だと100両とも150両とも。楕円形の巨大枕のような1つ1元のスイカを積んだ貨物が10両 右から左にゆーっくり通過するのを10分近く眺めていたことをよく覚えている。その間地元のおじいちゃん達が保温弁当箱にお粥を入れて、グラスに中国緑茶にお湯入れて、くっちゃべってる様子を眺めたことも、懐かしい。 やっと着いた目と鼻の先の会場では、運営係のおじいちゃんに中国語で、朝ごはん食べたか?と聞かれ中国語の記載にいちいちびっくりし、いそいそとアップにいった。国際大会は札幌で行われたアジアエイジ、その次はヨーロッパで行われたW杯、その次ということもあり、不慣れな部分が多かった。 バロセロナ五輪の代表から落ちて、奮起していた私はノリに乗っていた。バロセロナで金メダルを取った上海出身の個人メドレーのレジェンドに胸を借りるつもりで挑んだIM400で彼女を大差で破り、続く得意のIM200でも勝利し、記者会見にも参加した。当時日本の大学に留学していた仲間が通訳をしてくれて、無事事なきを得た。地元テレビ局では大騒ぎだったそうで、何故か話題の人という選考で素敵なツボを頂戴した。今実家の母の花瓶となっているが… 日本チームで固まっていてもつまらないからと、友人とフラフラ中国チームに挨拶に行った。男子 女子共に様々なことを聞いて国家の強化施設についても話を聞いた。今のJISSのような施設があり、地元を離れて寮生活をしているそうだ。各競技団体がそこに暮らしている、基本朝から晩まで練習で学校もなく、年に数回実家に帰るとのこと。 私が空気を読まずに勝ってしまった上海出身の金メダリストは、金メダルを取ったことで両親に大きな家を建ててもらったそう。今彼女は水泳からは離れているようで、別の仲間が理事のような仕事をしている。 中国語がわかるようになった今、もっと視野を広く考えられるようになったし、運動だけという仕組みも組織的ドーピングも無くなったが、義務教育を終えた私が子供ながらに幸せって何だろうなぁと考えたGWだった。